昭和51年11月02日 朝の御理解
御理解 第65節
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」
お道の信心によって神様を信ずるという信心ですね。信ずる心。信ずると言う事は、おかげがあらたかであると言う事から、神様を信ずるというのなら、何々様でもあんまりたいした変わった事はないですよね。おかげを頂く。「はぁやっぱ神様っちゃござるばい」と、言う風に神様を信ずるという、お道の信心でいう信心というのは、その根本になるものは、この今日の御理解65節にあるようにいう。
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は使い勝手のよいのがよい家相じゃ」と、例えば言う風にです、日柄とか方位とかと言った様な事が、神様のご恩恵お恵みの中にあっての事だから、そう言う事は全部迷信だと分かり。それを信ずると言う事がお道の信心の信心の根本です。信心とは信ずる心の根本です。神を信ずるという、ただ御利益を頂く、不思議なおかげを頂いた。「はぁやっぱ神様はござる」その信心じゃないです。
金光様のご信心の信心というのは。「天地の間におって氏子おかげを知らず」と、御理解三節にもありますようにね。「日柄方位ばかり見て、天地に対する無礼を致し」と、仰せられるようにそう言う事がそうだと信じられる。神様のお守り下さる天地の中にです、それこそ指一本で押すだけでも、金乃神様のご恩恵に浴していないと言う所はないのです。天地の親神様の、清いところも汚いところも、天地の親神様のご恩恵の中なんだ。言うならば、天地の親神様の懐の中なんだ、この地球も。
人間が住んでおるこの地球全体がそうなんだ。だから日柄やら方位やらと言う様なものがある筈はないんだ。いやあるものはご恩恵ばかりだと、それを分かり信ずる事がお道の信心の信心です。それが信心の言わばお道の信心の根本はそれです。そこから信心がつがっていきませんと、言うならば基礎なしに家を建てる様な事になります。何十年信心しよっても日柄方位を見たり、普請作事にいろいろこちらは鬼門神であるの、こりゃなんのと言った様な事を、言う様な事ではです。
もう金光様のご信心はもう、言わばほんとの意味において台無しですね。ここがね根本のところよく分かりませんとね、あのうほんとの信心があのう築かれないですよ。案外金光様のご信心の中にでもですね、やはり日柄方位を言う人がまぁだおると言う様な事やらもう、金光様のご信心の根本の信心、信ずる心がないというてもよいです。昨日佐賀から、人連れで参ってみえた方達。先日から西岡先生の所へ電話をかけてきた。
何かの事で、近所のもう祈祷師のところに、まぁ行かねばならない様な事で、まぁ義理でもまぁ言うならば拝んでもらう事になった。そしたらあなたの所の裏にはもと竹薮があった。その竹薮に、何かほこらのようなものがあって、それをその、竹薮を切り開かれる時に、いかってなさる、それが威かってなさるから次々困った事があるんだ、と言う風にその言われたというのです。
まぁそれも本当かも知れません。ひとつの霊能者と申しますかね。いろんな事が分かられる人達がそう言う事を言われます。けれども自分ところにはその竹薮もなかったし、祠があったとは思われないけれども、まぁそう言う事を言われてみるとやっぱ気色が悪い。だからそう言う様な事が大体あるのでしょうかと。又はそこへ行くと仏さんが下がっておられるとか頼ってござるとか、縋ってござると言った様な事を、それでその祈祷人さんに来てもろうて、お払いをして貰わなければならない。
そう言う事があるのでしょうか。それもうあるかないかと言う事、やっぱ嘘を言いよりなさるとも思われんから、あるのはあるのでしょうねというて、私は沢山な例をお話しさしてもらった。第一久富先生が丁度ここであの就いてましたから、久富先生と私の出会いの話をさしてもらった。あちらには沢山な御霊様が縋って来ておる。それで一週間私と始めて会った時に、後の次の日曜の言うならその福岡から、あれはあの南無妙法蓮華経ですかね。南無法蓮華経の祈祷人さんです。
まぁその縋って来ておる御霊達を、一所に寄せてから注連縄を張って、そこに封じ込んでしまわにゃいかん。そういう出てこられんごたるっちゅうのはいかん。そういまぁ言うなら儀式の様な琴をせにゃいかん。そんなら「この次の日曜に」と言う風にして、お願いして来てあったらしい。それで私が道お家に帰って、久富先生のところにお話しに行ってくれというので、やらせて頂いて、私もやはりそういう意味の琴を頂いたんです。それこそトレーラーバスに一杯乗っとる御霊様を頂いたんです。
だから私がそう申しましたら久富先生が、もう私は、ちょっと出かけよるから、用があるなら早くお話をして下されと言われたけれども、まぁそげん急ぎなさいますなと言うてその話をしたら、久富先生がまたわざわざ靴を脱いで上に上がられました。そして実は一週間前に福岡にこうこうの事で行って、今言う様な事がある。あるやっぱり私と言うたことが一致した訳なんです。
だから金光様のご信心はそういう封じ込んだり、もう出てこられんように注連縄を張ったりする事ではなくて、そういう御霊達を助けると言う事なんだ。そら助けるっちゅたらどういうこっちゃこげな仏壇に、そげん沢山の御霊様が入りなさったらどげんなるですか。いやそりゃ石炭箱のような仏壇でもかまわん。真心でその人達を金光大神のお取次ぎによって助けると言う事が、お道の信心だという話をさせて頂いて、その先生があのう私に帰依をなされ、北野の教会当時はまだ北野にお話行ってる時分でしたから。
北野の教会で改式のおかげを頂いて、それから金光様のご信心をなさるようになった話。ですからその御霊の事なんかでも、そういう事実もあると。それから秋永先生ところの元の家の向かいに、原田さんというお家があった。立派な御普請が出来た。ところがお父さん、おじいさんが寝込みなさった。そこで大体は善導寺の教会の古いご信者さんですけれどもその、お伺いどころにお伺いに行かれた。
そしたら坪の方にその何か古いその、偉い人の骨がいかっとるから、それを堀出さないかんというので、もう祈祷人さんがたが見えてもう、そらもう大掛かりでやんがた水が出る程ごと掘らっしゃった。そしたらやっぱこのほこらが出てきたようです。瓦か何じゃ分からん。「はぁこれこれ」ち仰ったそうです。それでから病気よう治さらんじゃった。それからまた拝んでもらったら、あなたのところの今度の普請の、あなたのところは玄関からこう庭があって、座敷があって炊事場がある。
いわゆるあなた方はけこんくどじゃから、それでいかんからそのくどの様子を変えはる。もう立派に出来とるとを、そのクドの位置を替えられたです。そればってんようなされじゃった。そして当時の椛目にあのう参ってみえられた。秋永先生の側のお導きで。そんで私が、「そのクドば又元に直しなさい」ちゅうた。使い勝手のよいように。ちゃんと始めは使い勝手がよいように出来ておった。「そうしりゃおかげ頂きますよ」と言うてあの、申しました事。そして暫くしてそのお爺さんは、おかげを頂かれた事の話。
そらこの頃から、あのう椛目の内田さんところの向かいに、のお婆さんが亡くなられた。こちらで大祭前でいろんな御用のある時分であった。ところがその丑の日やら、あれは何て言うんですか。何でしたか。友引かやらが続くからそのう、「葬式ができん」ち言う。で近所のもんはそら迷惑なもん。どこか行かにゃんけれども、みすみすもしこの死んでござる事が分かっとるっち、一日、二日後には葬式の事が分かっとるもんじゃから、いつどこへも行きもされん。でほんに迷惑なもんという話を聞いた。
だからそのうそういう事をね、信ずるとそういう窮屈な事にならなきゃならんと言うて、私は高柴さんところのお母さんが亡くなられた時の話をした。やっぱりその友引にあったから、やはりそのう親族がいろいろ親戚のもんが言うからと言うので、それを避けて一日先にお葬式をなさるように、もう親戚中に電報を打たれた。そしてここでお届けに来られたから、その時の私は大変やかましかったから、「もう金光様の信心しよってそげなことしてから」ちゅうてやかましい言うた。
そして「また電報を打ち直しなさい」「明日さしてもらう」と言うて、電報打ち直しなさいと言うてあのう、言わば友引じゃったか丑の日じゃったか知らんですけれども、忘れましたが、お葬式さしてもらいました。そしたらもうその明くる日はもう、土砂降りでしたね。だからこういうおかげが頂かれる。また善導寺の教会のあの婆しゃんがね、親、今の親奥さんじゃない。
前の婆しゃんがと私と親先生と三人でご本部へ月参りをする。その時に表に出られてあのう、今ちょうど奥城があります、あのところ辺まで見えるところが、新しい下駄の緒がプッツリ切れた。そしたら婆しゃんが言われる事が「いやあおかげ頂いた。これがほんに道中でもあるならば、裸足にならにゃんとこじゃった」と言うて、あのまた下駄を履き替えて行かれるのを見てから、「はぁ金光様のご信心っちゃこれだなぁ」と私は思うた話をさせて頂いた。
「いやぁ今日は出がけにね、新しい鼻の緒がプッツリ切れたが、どうでも行かなきゃならん。「今日はどうでも何か悪い事でも起こらにゃよいが」と言うたり思ったりして行くから悪い事が起こるのだと。いわゆる迷信と言う事は「迷う」「信ずる」と書く。だから、迷うた事でも信ずるからやはり、そういう結果になる。金光様のご信心というのは、もうそれこそ広々とした、自由無碍な世界におかげを頂いておる。その頂き方受け方ひとつで正しいおかげを受けられるのがお道の信心だ。
昨日はどういうわけか、そういう例を沢山お話さして頂いた。そして現在の合楽の場合であるならばです、こらもう三十何年も前の話に、久富先生のところの沢山の、トレーラーバスに乗らにゃんぐらいの沢山な御霊さんが、縋って来とるというのが。その家はもとね朝鮮人の人達が沢山、借りて入っとった家だったらしいです。久富先生があの南方から帰ってこられたお家が。そしてあのう戦時中大変激しくなって、朝鮮の方へ引き揚げて帰るその船があのう、それこそ玄海灘の真ん中でそのやられた訳です。
それで船一艘なくなっとる訳です。だからそげな朝鮮人の御霊がその、やっぱ散ったけんその助かられるところっていうので、トレーラーバスに乗ってやって来とるほど、言わば縋って来ておると。今から言うと笑い話のような話ですけれども、まぁそういう事実がないではなかったというのです。私はその先生と頂いたんですから。ですからもうこれは天地の親神様の、言うならば今の生き方でいうと演出なのであって、久富先生が一辺でコロッと私に参りなさるようにそげな働きがあった。
福岡のまぁ何妙法蓮華経さんも、やはりそういう意味の琴を言われた。私も同じようなことを言うた。ただ救い方、け方が違うだけであるという、だからそれもなら決して嘘ではないけれども、今の合楽の生き方からいうと、それこそどういう難儀な問題であろうが、例えばんなら御霊の助かっていない御霊があるにしたところでです、ここでお取次ぎを頂いてね、おかげを頂けばもうそれですむんだ。そんな簡単な事で良かろうかと、人達の知らぬ方達が申しますように、段々話をして行く家にです。
今申します迷信でもです、やはり迷うた事を信ずるから信じた事になるのです。そこにお参りをすると頭が痛いと。そりゃなんというですかね「仏さんが触ってござる」とか、「荒神さんが触ってござる」とかとね。これはあの久富繁雄さんがまだここに信心の前に、たいへん何か熱病があられた。いや足が痛かった。それでその、所のお稲荷様にお参りをされた。「そら久富さんあんた、金神さんの足に鍬打ち込んどるばの」と仰ったそうです。そら百姓じゃから鍬をこうやっぱ使いますからね。
金神さんの足に鍬打ち込どるっち。それけん金神様が腹かいてなさる。だからお詫びをすればと言うて、やっぱお詫びをしよったら良くなられたそうです。そればって私がその話を聞いてからです、「ほう金神さんの足っちゃどのへんにあるばんの」と言うて笑ったことですけれど。そう言う事でもいわゆる祷人さんが、我がよかごと言いなさったとは思われないわけです。だからその修行をすれば良うなってなさるですから。事実がある。お詫びをしてお神酒どんあげなさったかなんかでしょう。
だから今の合楽の信心からいうと、愚にもつかない事だけれども、まぁそういう祷人やら霊能者の人やらが、嘘を言われると言う様な事。これは今のあのうまぁ大宗教家ですよね。あの生長の家の谷口雅治さん達が言われておられる事でも、今の私の信心からいうと、もう全部滑稽な事ばっかりです。そらもう理路整然と魂の世界の事が書いてありますよ。まぁ私もまたそれを信じておった時代もあります。けれども段々信心が進んで行くにつれてです、本当な事が段々分かって来ると言う事。
そしてなら私が最近言っておりますように、魂の世界というのは暗黒だと。暗黒の世界だと。だから、の世でおかげを頂いておる間に、真の信心をさしてもろうて、言うならば信心の光を頂いた行き持って行かなければ、あの世ではもうどうにも出来ないところだというのがもう、私のぎりぎりのお道のあのう言わば霊界を、私はかく見ておると言う事なんですね。谷口さん当りは、もう十何段階に段階があると言うとられますね。そうじゃないです。ただこちらから持って行く光が何段階にあるというだけの事です。
燭光電気を持って光を持ってく人、百燭光の光を持って行く人だから、もう十何段階どころじゃない、沢山その段階があるでしょうね。だからお取次ぎを頂いておかげを頂くと言う事でもですね。例えばあのうまぁ違うた事を信じれば、やはり信ずるような事になるのですから、いよいよ本当な事を信ずると言う事にならなければです。だからやっぱある事はあるかも知れんけれども、んなら現在合楽でおかげを頂いておる方達は、本当の金光様のご信心の、信心と信ずると言うならばどこを信ずるかというと。
天地の中にはです、指一本で押すだけでも、天地の親神様の御恩恵を浴していないと言うとこはないと言う事。日柄もなからなければ方位もないと言う事。ただあるものは有り難いものばっかりだと言う事。それを信じていわゆる始めて信心になるのです。金光様のご信心は。だからこれが信じられずして、いかにどんなに詳しい事が分かっても、金光様のご信心は、いわゆる台無しになるのです。そしていろいろ分からして頂く事は、まぁ迷うた事でいわゆる迷信でもです。だからよか迷信ならよかですもんね。
私はあのういつかご本部参拝した時に、大阪辺りのご信者さんだったです言葉が。その御祈念ばしてから終わられたら、前にですね小さい蜘蛛がスーッて下りて来たんです。本当にそしたらその蜘蛛をこう握ってから、懐の中に入れた。もう私はもう側で見よって気色の悪うて。「どういうことですか」って私はある方に聞いたらです、あれはね蜘蛛がねこう何か「朝の蜘蛛は親に似とったっちゃ殺せ」っちゅうそうですね。けれどもなんか時間があるらしい。
時間のなんか都合の良か時に、下がって来た蜘蛛は、ふところに入れると必ず金が入って来るという、迷信があるそうです。だからそれを信じれば本当そうあるんですよ。これは昔の花柳界には随分そういう迷信がありました。今日は良かお客が来るよ。良かお客が来ないなんて言う様な事は、もうちゃんとそのなんかでね分かるらしいです。けれどもまぁ良か迷信ならともかくだけれどもです。まぁそれもとしても実を言うたら、おかしな話ですけれども。
金光様の信心をしておって、んなら結婚するのに黄道吉日を選ばねばならんとかね。さあ葬式をするのに友引の丑の日と言う様なものが、ある様な事がまだ頭の少しでもあるとするならば、まぁだ金光様の信心を信じていないと言う事になるんです。だからこの信ずると言う事がですね。それはもういろんな宗教がありますよ。とにかくそのう御霊様の事ばっかり言うて御霊さんの供養をさせる。
そら他所のその他人の御霊まで救わんにゃん、助けんならんと言った様なそのう事で、やはり助かっておる教団集団があります。それは私はやっぱりなら天地の親神様がね、先祖を大事にするとか御霊様を大事にするというその心根が、天地の機感にかなうから、やはりひとつのおかげのようなもんが現れてくる、と言う事も又事実ですけれども。その信心のだから過程。だからそう言う一つの過程に止まってです。
そういうまぁ識者から見たらおかしな信心をしたり、琴を思うたりしておるような信心から脱皮して、金光様のご信心はこの六十五節にあります様なね。あるものは神様の御恩恵あるのみであると確信ができて、信ずる心がでけてそこから言わば出発と言うか。そこからいよいよ真心まごころね。又は神心と言う様にお互いの信心が進んで行くと言う事がです。金光様の信心の言わば土台なんです。だからそれをもし言う心が、心の中にあるとするならあなたの信心は、もう台無しだと言う事になるのです。
これはね今日は私は皆さんが、今の話は何遍でん聞かれたお話じゃろうと思いますよ。けれどももう一辺私は昨日佐賀の方にその話をさして頂いて。例えば迷うた事でも信ずれば、やはり信ずる事が成る。すると「あっちの祷人さんが言わっしゃったのはほんな事」と言うて、そこに言わば帰依してそんな信心でもするようになる。そんな御霊様拝みの信心でもやっぱり信心するようになる。
けれどもそうした事では真実の助かりにはならない。それこそ天地に対する無礼を働く事になるのですから、そう言う事がめぐりになって、本当の本当の魂の救われる、助かると言った様な事にはならない、と言う程しにこれは絶対のものなんですから。そら皆さんが信心のない人を、あのところと縁組をするとね、相手の人が日柄方位を言われる。だから「そういうのは私のはいいけん、だけんお宅のよかごと言えばいい訳なんです。それを「いや家は金光様を信心しよるけん。
そげな日悪か日で良か」というてわざわざ言う事はいらんですけれども、そら先方の方からそうなってくるのですから。けれどもこちらがそういう黄道吉日の方が良かとか、日柄を見らにゃいかん。方位を見らにゃいかんと言った様なね。言わば愚にもつかない迷信が、自分の心の中に残っておるとするならば、金光様の信心は台無しだと言う事を今日はひとつ、肝に銘じて頂きたいと思うんです。
案外金光様の信心をしよってもね、それを言わにゃんまでいかんごと思うておる金光様の信者も沢山あるからです。結局何でも土台がある。大事だその土台になるものそれは、御理解三節にあり、又はこの六十五節にあります様な、日柄を方位をまぁ言うならば、迷信を言う様な信心をいよいよ脱皮して。天地の親神様のそれこそ善導寺の婆様じゃないですけれども。出掛けに旅立ちの出掛けに鼻の緒が切れた。「はぁおかげ頂いた。もしこれが途中なら裸足にならにゃんとこじゃった」と。
お礼を申し上げる心には、もうお礼を申し上げる事ばっかりしか起こらないと言う事です。「いやぁ今日は出掛けに縁起の悪い事じゃった。悪い事が起こらにゃ良かが」と、そう言う事を心に信ずるから悪い事がやっぱ起こる。そして自動車に衝突して死なっしゃったげな。それが出掛けにやっぱ下駄の緒が切れたげな、と言った様なね事にまで成り兼ねない訳です。ほんとにねもうおかげを頂かにゃでけんです。昨日福岡の野中さんがお届けをされましたが。
娘さんが買い物に自転車で行きよってから、トラックにはねられた。もうそれこそもう、自転車はもうめちゃめちゃになったそうです。ところが、はねられてどうもしとらんじゃったっち、そういう例えば、おかげの頂けれるあのう信心をですね、ただそういうおかげの受けられる信心をです、まず根本的に分からなければいけないと言う事なんです。土台を分からなければいけない。そして皆さんが、そこんところを、本当にそうだと信じて分かって。
そうした迷信に囚われて窮屈な生き方をしとる人に、どうでも真からお話をして、私共が事実助かっておる事実をですね、話して。これはもう日本中だけじゃありません、世界中にそういう愚にもつかない迷信に囚われて、窮屈な広々とした世界を狭くしてしまうような、生き方を改めて行かなければなりませんから。先ずはお道の信心をさして頂く者が、そこを頂いてですね、自由無碍な世界に生きて行かれるおかげをひとつ頂いて、手本を作っていかなければならんと思いますですね。
どうぞ。